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みえない
価値を
カタチにする

デザインとは”形”をつくることだけではありません。視点を変え、情報を再構築することで、まだみえていない価値を見つけ出し、新しいカタチをつくること。
それが、私たちの考えるクリエイティブ・デザイン=ブランドづくりです。

JOURNAL

フランスのトラウト(鱒)を釣りたい。
フランスのトラウト(鱒)を釣りたい。 category : international
update. 2018.07.20

ようやくストリーマー(水中を泳ぐ小魚に似せたフライ)に魚が食いついた。土手の上から川を観察し、いくつかの魚影を確認した後、最初はドライフライ(水面に浮くフライ)を投げ込んだ。   周囲には釣り人の足跡もなく、新鮮な水が流れ込むとても条件の良さそうな環境だったからだ。   しかし、実は、何より魚が飛沫をあげて顔を出す瞬間を見たいというのが僕の本音であり、そのために「これを食べろ」と強要したわけである。 過剰在庫を持ったペンキ屋がピンク色の外壁を勧めるように。   ところが魚は水面を意識していないので全く反応を示さない。   そこで僕は少々不本意ではあったけれど、フライをストリーマーに交換したのだ。 その直後であった。指に振動が伝わった。 竿の先に繋がる生命力はとても重い。 しかしそこには確固たる拒絶の色はないように思えた。糸はリールから引き出される事なく、相手は少しづつ寄ってきた。約二分間の交渉活動の末、魚は丸々とした金色の腹を見せ、中洲の浅瀬に横たわった。   「えっ」興奮から失望へ転落した男の声である。魚体に黒い大きなウロコを目にした時、僕は本当にがっかりした。釣り上げたその魚はトラウトではなく、鯉(コイ)であった。 「神楽坂(市ヶ谷フィッシュセンター)に来たわけではない。フランスに来たんだぞ」という言葉が僕の口をついた。   夕方、ショッピングモールでの買い物を終え駐車場に戻ってきた。パリ郊外の西日を受け、遠くに僕の車の後ろ姿が黒々と輝いている。 フランクフルトのレンタカー会社が用意してくれた最新のメルセデスC180ワゴンだ。   車まで30mほどの距離に近づいた頃、異変に気が付いた。   最初は車内に置いてある釣り道具が水分を含んでいるせいで、窓が曇っているものだと思った。 しかし近づいてみるとそうではない。 ガラスが割れているのだ。   有事の際の衝撃吸収性と飛散防止のために特殊加工されたリヤウインドは、外部からの衝撃を全身で抱え込み、車内が見えないほど真っ白にヒビが入っている。今にも崩れ落ちそうだった。   瞬時に「当て逃げか」という思いが巡った。車の右側に回り込んでみると、後部座席のウインドには拳より一回り大きい穴がぽっかりと口を開けている。その穴から車内の様子を窺うと、シート上には黒く乾燥した血痕と、粉々になったガラスの破片が悲しく散らばり、ドアロックが引き上げられているのが見て取れた。   「Oh gosh! やられた」僕は呟き、天を仰いだ。この瞬間それが車上荒らしによる損傷であることを確信した。   まさに完璧な空だった。バカンス用の天候としてはこれ以上上質なものには、なかなかお目にかかることはできないだろう。雲ひとつない青空の下、湿り気のない空気の中、思いやりのある風が子守唄のように顔を撫でていた。まさに完璧な空だった。僕のメルセデスC180ワゴンを除いては。   その日、僕たちはパリから車を走らせ、約400km東にあるルクセンブルグという国に移動しようとしていた。おおよそ4時間。その程度のドライブは日常的に行っていたし、国境越えにパスポートを提示するような大掛かりな入国審査があるわけでもないので、行列に並ぶ心配もない。   気持ちには随分と余裕があった。そこで、道すがら、パリ郊外にある大型ショッピングモールに寄ることにしたのだ。 高速道路を降りてすぐ、ショッピングセンターの私道に入り、案内標識に従って駐車場を目指す。とても大きな駐車場だ。 広大な土地を見ると「東京ドーム何個分だろう?」高いものを見ると「東京タワー何本分だろう?」などと考えてしまうのは、僕の悪しき習慣だ。   フライフィッシングを始めて数年が経ち、最近は「何センチ?何匹?何ドル?何年で回収?」などと数を競ったり数値化することは、品格を欠く、つまらない人間の思考なのではあるまいか、と考えるようになったし、生活の中でそう言った類の話を聞かされると貧しい気持ちを覚えるようになった。(思い起こせば、そもそも最新のスカイツリーはもちろん、東京タワーや東京ドーム、富士山にだって行ったことはない)   はるか遠くにある施設の末端をあてに目測するとこの駐車場は数千台を収容できるだろう。しかし、さすがは人気のモールだけあり、既に先客で目一杯に埋まってしまっているように見えた。 自分のスペースを確保するのは容易ではなさそうだ。「Oh gosh!」僕は決まり台詞を吐いた。あるいは両手の手のひらを仰向けに肩をすくめていたかも知れない。 ほとんどエンジンのアイドリングだけで注意深く車体を動かし、柔らかいブレーキワークを織り交ぜた徐行運転で、グルグルと同じような景色を巡った。 まるで極端に注意深いトラウトが、生存をかけた確かな場所を求め深淵を回遊するように。   ようやく適当なスペースの発見に成功すると、僕はコンクリートの車止めに頭から突入し、エンジンを停止させた。シートから立ち上がりドアを閉める。 買い物が終わった後、迷わずここに戻れるよう、割り当てられたブロック番号とモール本尊との位置関係をiPhoneで撮影しておいた。リモコンキーから発せられた「施錠」の指令を受けとると、黒豹は忠実にライトを点滅させ、しとやかにミラーを畳んだ。   ヨーロッパのモールだけあって名だたる一流ブランドが看板を連ねる。しかしむしろラルフローレンなどのアメリカブランドに長い列が伸びていることが印象的だった。 パリの中心地でも上陸したばかりのFive Guys(アメリカ東海岸を中心に全国に展開するバーガーショップ)にパリジャン、パリジェンヌが群がっていたことを思い出した。   「この近くにはトラウトのいそうな川も無いし、今日はここでのんびりすればいいじゃん」と僕は言い、ウインドショッピングをした後、クロワッサンやクレープをフランス語で注文することに挑戦したり、エスプレッソをすすって、うかうかとした午後を過ごしていた。   リヤウインドは全体が蜘蛛の巣に覆われたように真っ白に曇っていた。衝撃の中心点が見当たらず外部からどのような力が加えられたか想像ができない。あるいは犯人はバールのようなものを使ってガラスとボディの境界線をこじ開けようとしたのかも知れない。   後部座席の窓には20cm程の穴が空けられロックが解除されていた。シートとフットスペースにガラスが無残に崩れ落ち、所々黒い血痕が見て取れる。 犯人は素手でガラスを割ったせいで拳を痛めたのだろうか。あるいは穴に手を突っ込んだ際に腕を切ったのだろうか。トランクの荷物を隠すためのトノカバーは乱暴に引き剥がされヘッドレストの横に力なくうな垂れていた。 運転席のコンソールボックスは完全に空だった。その中に一本だけあった爪楊枝までなくなっていることに驚く。   僕が対峙している相手はドイツから国境を越えてフランスにやってきた、高級車に乗った観光客を見逃さない。そして白昼堂々と攻撃をしかける行動力と、どこまでもあくなき貪欲さを持ち合わせたプロなのだ。 活力を失った暗い車内ではピンク色の布だけがブリリアントに輝いている。僕が釣りをするときに使うスマートウール社製の防寒ソックスが取り残されていた。片足だけ。   僕は何をするべきか分かっていたので、パニック状態には陥らなかったが、この後の旅程への影響が気になっていた。 「長い一日になりそうだ」僕は呟いた。レンタカー会社へ事件を証明するために、警察から書類を発行してもらう必要があるので、すぐに電話をかけた。   「誰かが車を壊して中の荷物を盗みました。どなたか英語の話せる人はいませんか」何度か同じ内容の話をしたが全く通じない。   僕が一方的な主張を繰り返していると、“セキュリティー”と書かれたショッピングセンターの白い車が近づいてきて、警備服を着た二人のガードマンが降りて来た。 「監視カメラを見ていた」「若い男が怪しい行動を取っていた」「異変に気が付き駆けつけたが間に合わなかった」という趣旨のことを話してくれた。   僕はiPhoneを彼らに渡し、英語の通じない警察署職員に事情を説明してもらった。破壊された車と途方に暮れるアジア人を目にして、買い物客が眉間に同情のシワを寄せ歩いて行った。「この近くに警察署があるので私達の後に着いて来てください。ここから二分の所です」ガードマンが言った。   警察署は頑丈に施錠されていた。ショッピングモールのガードマンが扉横のインターホンを鳴らし、二言三言の説明の後にブザーとともに自動ロックが解除された。 アルミフレームの扉をくぐると人の気配は無く、空っぽに静寂している。銃弾や火災に強そうな無機質なグレー色の空間だった。   奥から三十歳前後の、後頭部の形の良い、短い金髪の男性警察官が出てきて、特に歓迎とも拒絶とも取れない中立的な表情で僕たちの前に立った。 「誰も彼も本当に素敵だなぁ」というのが僕の第一声であった。ガードマンも警察官も新作の春夏制服コレクションのためにランウェイを歩くモデルのようで、僕との対比がものすごい。   もしこのシーンに観客がいたなら、メインストーリーである車上荒らし以上の悲劇に心を打たれるに違いない。   彼らがフランス語でやり取りをする内容は全く理解できなかったけれど警察官が首を何度か横に振り、ガードマンが気の毒そうな表情をしていることは察知することができた。 五分間ほどの立ち話の末「この後のことは警察が対応します。担当者が不在らしいのでここで待っていてください」とガードマンは僕たちに言った。   特に異論は思い浮かばなかったので、念のためガードマンの名前と彼のオフィスの電話番号をメモして別れることにした。彼らガードマンが事件現場に駆けつけた当初、僕には「ガードマンとしての職務をしっかりと全うすべきだった」という不満の気持ちが多少なりともあったけど、今は彼らの尽力に対する賞賛の気持ちと、あるいは警察官より英語が堪能なことに対する有り難さを感じていたせいだろうか、その別れを少し寂しく思った。   「あなたたちのおかげで助かりました。協力に感謝します」僕は丁寧に伝え握手をしてから彼らを見送った。 「今回の件はとても気の毒ですが。それでは失礼します」二人のガードマンはそう言い残し警察署を後にした。そして僕は窓のそばに近寄り、ガードマンが出庫する様子と、傷口を露わに弱々しく横たわった黒豹を観察した。 警察署の駐車場と言えども、午後の陽はまだ高く、無防備な獲物はとても目立つ。被害の重ね塗りに合わないよう注意深くそれを見張る必要があったからだ。   警察官は事件の証明書を発行するための申込用紙を事務机の中から引っ張り出した。 「ここに必要事項を記入して担当者が来るまで待っていてください」「わかりました」僕は返答した。 それから彼は僕の作業を見届けもせず、待機もせず、すっと奥の方へ消えてしまった。それは一時的か永続的か判断のつかない不在であった。   人々は去り、テーブルの上の申込書と転がるボールペンだけがその場に残された。僕はボールペンをおもむろに拾い上げた。スペイサイド地域の釣り師が水面からゆっくりと糸を引き剥がすように。僕は今、途方もない足止めの淵に立ったのだった。   再び訪れたグレー色の静寂の中で、右手はボールペンを走らせた。申込用紙の作成は難しいものではなく、名前や事件現場の住所など簡単な情報を記入すれば良かったのですぐに書き上げることができた。   「遅いな。何やってるのかな」待ちくたびれた僕は呟いた。このままこの場で待機していれば良いのだろうか。いやそんなはずはない。ここは日本ではないのだ。 週に三十五時間以上働くことを禁止されているフランスであり、ましてやここは営利企業ではない警察署であり、さらに加えて僕たちは言葉の通じない外国人観光客である。   どの職員だって可能であれば先送りにしたいと考えるし、可能であれば他の誰かに任せたい案件であるに違いない。 自ら手を挙げ、存在と催促を主張すべきだ。時折、奥の方でガチャンとドアノブが静寂を破り、バターンと金属音が署内に反響する。 警察官が早足に出てくるが、僕が声をかけようとすると、あるいは書類完成の旨を告げると、それまで以上に足早になって通り過ぎていったように見えた。   何人かに依頼を繰り返すと、英語を理解できる職員だけがちらちらとこちらに意識を集中してくれる。しかし彼らは総じて精力的な対応をしなかった。   「今は担当者が不在だ」「管轄内で事件が起きて逮捕者が出たから車上荒らしは優先されない」「ディズニーランドでイベントがあり多くの職員が借り出されている」「あと三十分で担当者がくる」「君たちができる唯一のことは待つことだ」といった内容を完結に告げ去っていった。   僕たちはもう五時間以上待っている。   事件直後、警察署に到着した時に、警察官が首を横に振り、ガードマンが憐れな視線を向けていた理由がようやく分かってきた。   僕たちはこの日、フランスからルクセンブルグ(日本ではあまり馴染みがないがフランスの隣にある小国である)に入国して一泊する予定で、朝食の美味しいことで有名な悪くないホテルを取ってあった。   そのホテルまでは最低でも四時間はドライブをする必要があったので、既に深夜に差しかかった時計を見て、ロマンチックな予定は壊滅的であることを知った。   もちろん支払い済みの代金だって戻ってこない。その後、僕は懸命に事情を説明し、同じ地域にある他の警察署で手続きができないものかと交渉し住所を教えてもらった。 しかし、そこに行ってみても状況と結果は同じであった。結局「もとの警察署に翌朝八時に行け」ということになり、やむなく近くのホテルに飛び込みで宿泊することとした。   フランスを出国した後「フランスが嫌いになったでしょ?」と方々で聞かれた。 すると僕は首を横に振る。嫌いではないという意味だ。   応急処置的に宿泊したホテルのフロントの青年は、大の日本贔屓で漫画や北野映画についての知識は僕が舌を巻くほどだったし、翌日、証明書の作成を担当してくれた女性警察官は、とても熱心で正義感に溢れ、まるでジャンヌダルクを思わせる人物であった。(実際、僕は彼女との別れ際にそのことを伝えたが、彼女は微妙な表情をしていた)   今、僕は、魚を“フックする行為”はフライフィッシングを形作るほんの一部の要素であって、旅先の地理を知ること、トラウトのいる川を調べること、ライセンスを獲得すること、入渓ポイントを調査すること、駐車スペースを探すこと、トレッキングをすること、宿を手配すること、地元のチーズや酒を嗜むこと、その土地ゆかりの作家の世界を探求すること、これらの準備を含めた総体を“フライフィッシング”と呼ぶものだと感じている。   したがって、例え糸の結び方が少しばかり下手であっても、フライが遠くに飛ばなくても、あるいは魚が怖くて触ることができなくても、一連の過程に対する忍耐と知性、冒険心を持ってすれば、日焼けした熟練のマッチョマンフィッシャーを出し抜くことができるし、かつての文豪たちが描いた世界に見え隠れする、豊かなフィッシング人生に寄り添うこともできる。   そして、事の成り行きによって蓋然的に生まれる人との出会い、また地球の歩き方やことりっぷでは抜け落ちてしまうような小さな町の発見と寄り道も、フライフィッシングの喜びを構成する楽音の一部であり、状況次第では(全く魚が釣れない状況や、運命の出会いがあった状況)それが主旋律となりうる。   だから、このような厄介な仕事を抱え込み、疲弊しながらようやく消化した今でも、またフランスで釣りをしたいと強く思うのだ。   今回の旅行ではゼブラトラウトと呼ばれるブラウントラウトの変異種を釣ることが目的であった。結果、鯉だけしか釣れなかったけれど、ここには書ききれないほどの驚きと、iPhoneのストレージが一杯になるほどの感動を得、刺激的で思い出深い時間を過ごすことができた。   このフライフィッシングを計画、立案、同行してくれた偉大なフライフィッシャー、僕のワイフにこの場を借りて礼を言いたい。   メルシー。

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