モノが余ったあと、人間は何をステータスにするのか?「富のシグナル」が変化するという仮説
ステータスとは「希少なものを所有できること」だった
以前、私は「ポストスカーシティ」という未来について、このコラムで考えたことがあります。
AIやロボティクス、エネルギー技術などが発達し、モノやサービスを生み出すコストが限りなく低下していったとき、私たちは何に価値を感じるようになるのか。モノが不足していた社会から、モノが余る社会へ移行すれば、当然ながら「希少であること」の意味も変わっていくのではないか、という話でした。
今回はそこから、もう一歩先へ進んでみたいと思います。
モノが余ったあと、人間は何をステータスにするのでしょうか。
考えてみれば、人類は長いあいだ、自分の豊かさや社会的な成功を「所有しているモノ」によって表現してきました。
大きな家、高級車、宝飾品、高級時計、仕立ての良い服。時代や地域によって対象は変わっても、その基本的な構造はそれほど変わっていません。
私が東京に住んでいた頃にも、現在暮らしているボストンでも、その表現方法こそ違いますが、街を歩いていると「その人が何を所有しているか」から、ある程度の社会的背景を読み取れる場面があります。
フェラーリに乗ること、ロレックスを身につけること、一等地に家を持つこと。
もちろん、それらを純粋に好きだから所有している人もいます。しかし同時に、高価なモノには昔からもう一つの機能がありました。
富を可視化することです。
銀行口座の残高は、通常、他人には見えません。しかし腕につけた時計や、乗っている自動車、住んでいる家なら見えます。高級品は、目に見えない経済力を、他者が理解できる物理的な記号へと変換してきました。
だからこそ、ステータスを考えるうえでは「高価であること」だけでなく、「簡単には手に入らないこと」が重要だったのだと思います。
誰もが同じものを持っていれば、それはステータスにはなりません。
手に入れるために大きな富が必要である。供給量が限られている。特定の場所やコミュニティにアクセスできなければ入手できない。あるいは、所有すること自体が、その人の社会的な位置を暗黙のうちに伝える。
つまり、ステータスとは長いあいだ、「多くの人には手に入らないものへアクセスできること」によって成立してきたとも言えます。
ところが、ここに少し奇妙な変化が起きています。
現代は、人類史上でも非常に多くのモノを生産できる時代です。かつて少数の富裕層だけのものだった商品も、巨大なグローバル産業によって世界中へ流通するようになりました。さらにオンラインショッピング、リセール市場、オークション、認証サービス、国際物流が発達し、お金さえあれば、地球の反対側にある希少品までスマートフォンから探して購入できます。
高級品がなくなったわけではありません。その美しさも、職人技も、ブランドが積み重ねてきた歴史も残っています。
しかし、「高価なモノを持っている」という事実だけで他者との差を示すことは、以前より難しくなっているのではないでしょうか。

私はアートやNFT、トレーディングカードを集めていますが、コレクションを続けるほど、価格の高さと希少性が必ずしも同じではないことを実感します。
高価であっても、お金を払えば今日手に入るものがあります。
反対に、お金を持っていても簡単には手に入らないものがあります。
この違いは、これからますます重要になるように思います。
テクノロジーによってモノの生産能力がさらに高まり、AIによって画像や文章、音楽、映像が無限に生成できるようになる。しかし、それによって希少性そのものが消滅するわけではありません。
希少性のある場所が、移動するのです。
そして、ステータスもまた、その希少性を追いかけるように別の場所へ移動していくのではないでしょうか。

ポストスカーシティ時代には「意味」が希少になる
では、モノそのものが希少ではなくなった世界で、希少性はどこへ移動するのでしょうか。
私は、その答えの一つが「意味」だと思っています。
これは、私が日頃集めているアートやNFT、トレーディングカードを眺めていると、とても分かりやすく感じます。
例えば、一枚のトレーディングカードを物質として考えてみます。
紙にインクを印刷し、箔やフィルムを重ねた小さなカードです。原材料だけを見れば、数千ドルや数万ドルの価値があるとは到底思えません。
それでも、Michael Jordanの特定のカードや初期のPokémonカード、大谷翔平の限定カードには、驚くような価格がつくことがあります。
なぜでしょう。
そこに使われている紙やインクが希少だからではありません。
誰が描かれているのか。
いつ作られたのか。
そのカードが、どの時代や文化を象徴しているのか。
何枚存在しているのか。
どのような状態で残っているのか。
そして、その人物や作品が将来どのように記憶されていくのか。
価値の大部分は、物質そのものではなく、その外側に存在しています。
アートも同じです。
キャンバス、絵の具、木枠といった素材の価格を足し合わせても、作品の市場価値を説明することはできません。
私がアートを集めるときに惹かれるのも、単に「きれいな絵だから」という理由だけではありません。
誰が作ったのか。その作家はどの文化に属し、何を見てきたのか。その作品はどのような背景から生まれ、誰に支持され、どのようなコレクションや美術館に入り、やがて美術史や文化の中でどのような位置を与えられていくのか。

私がXCOPYのNFTや現代アートを集めていて面白いと感じるのも、まさにこの部分です。
作品を所有するということは、ときに「美しいものを家に置く」以上の意味を持ちます。
その作品が生まれた文化の一部を、自分の人生の中に保存する行為になるからです。
NFTは、この構造をさらに極端な形で可視化しました。
デジタル画像はいくらでもコピーできます。
右クリックして保存することもできるし、まったく同じピクセルを世界中のディスプレイに表示することもできます。
物質的な希少性という意味では、これほどポストスカーシティ的なものもありません。
それでも人々は、特定のNFTに大きな価値を与えてきました。
そこで取引されていたのは、画像ファイルそのものだけではなかったからです。
誰が作ったのか。
いつ発行されたのか。
どのコレクションに属しているのか。
誰が所有してきたのか。
そして、どのようなコミュニティがその作品を文化として支えてきたのか。
ブロックチェーンは、少なくともトークンについて、こうした由来や所有履歴の一部を公開された形で記録することを可能にしました。
コピー可能な画像の周囲に、コピーできない履歴が形成されたのです。
私はここに、ポストスカーシティ時代の価値を考える大きなヒントがあるように思います。
モノが大量に作れるようになったからといって、人間が希少なものを欲しがらなくなるわけではありません。
むしろ、モノそのものが簡単に手に入るようになるほど、その背後にあるストーリー、来歴、真正性、文化的記憶、そして誰と何を共有してきたのかが重要になっていく。
例えば、同じHERMESのバッグが二つあったとします。
一方は、昨日店頭で購入された新品。
もう一方は、敬愛する女優Jane Birkinが長い間愛用していたもの。
物体として見れば、ほとんど同じバッグかもしれません。
それでも私たちは、その二つを同じものとして扱わないでしょう。
後者には、その人の人生の痕跡があります。
傷や経年変化さえ、その人が実際に使っていたことの証拠になります。
「この物体が、確かにその人の人生の一部だった」という事実だけは、後から大量生産することができません。
トレーディングカードにも、アートにも、NFTにも、私は同じ構造を感じます。
価値を生み出しているのは、モノそのものだけではありません。
そのモノが、何と接続されているのか。
人なのか。
歴史なのか。
文化なのか。
コミュニティなのか。
あるいは、自分自身の記憶なのか。
ポストスカーシティとは、希少性がなくなる世界ではない。
むしろ、希少性が「モノ」から「意味」へ移動していく世界なのではないでしょうか。
では、モノだけでなく、画像も文章も音楽も、AIによって大量につくれるようになったその先で、それでも希少であり続けるものは何なのか。
お金を持っていても、後から買い戻すことのできないものがあります。

AI時代に最も希少になるのは「買ってすぐには手に入らないもの」
それが、「時間」です。
正確に言えば、誰にでも同じように流れていき、使ってしまえば後から買い戻すことのできない時間です。
私は最近、このことを趣味を通してよく考えます。
例えば、フライフィッシング。
高価なフライロッドやリールなら、今日オンラインで注文することができますが、それだけで魚が釣れるようになるわけではありません。
私は世界中の山の中まで車を走らせ、川を歩き、魚のいそうな場所を探します。
地図を見てもよく分からない細い道を入り、森の中を歩いて、ようやく川にたどり着く。水面を眺めながら、虫が飛び始める時間を待つ。何も起こらないまま日没を迎えることもあります。
幸運に恵まれブラウントラウトが一匹釣れたとしても、その魚そのものに経済的な価値があるわけではありません。
けれど、その一匹にたどり着くまでに費やした時間、失敗、観察、記憶は買うことができません。
お金を払えば同じロッドは手に入ります。
しかし、同じ経験までは買えない。

ランニングもよく似ています。
私は目標に向かって毎日走っています。
最新のカーボンプレートシューズなら今日買えます。GPSウォッチも、心拍計も、スポーツドリンクも、トレーニングプランも手に入ります。
しかし、現在持っている身体をAmazonで注文することはできません。
朝起きて走る。
寒い日も暑い日も走る。
ゆっくり走るべき日はペースを抑えながら我慢する。
早く走るべき日は心拍数を見ながら絶妙なペースを狙う。
長い距離を走るべき日は途方に暮れながらも走る。
また翌日走る。
そうした一見退屈な行為を、何ヶ月も、何年も、積み重ねるしかありません。
お金を持っている人でも、昨日まで何もしていなかった身体に、今日100万ドルを支払ったからといって、立派に走る能力をインストールすることはできないのです。
これは、なかなか面白い種類の希少性です。
これまでステータスを生み出してきた希少性の多くは、最終的にはお金によって交換することができました。
欲しい時計がある。
欲しい車がある。
欲しいアートがある。
価格がどれほど高くても、マーケットに存在し、自分に十分な資金があれば、少なくとも購入する可能性はあります。
つまり、そこではMoneyがScarcityへのアクセスキーとして機能していました。
ところが時間によってしか形成できないものには、この方法が通用しません。
長年鍛えてきた身体。
何十年もかけて身につけた知識。
積み重ねてきた信用。
長く続いている友情。
ある場所について知っている感覚。
失敗を重ねた末に身についた技術。
これらは誰かから譲ってもらうことができません。
AIに生成してもらうこともできません。
仮に世界一の医師、コーチ、教師、ガイドを雇うことができても、彼らができるのは時間の使い方を最適化するところまでです。
必要な時間そのものをゼロにはできません。
ここに、ポストスカーシティ時代のもう一つの逆説があるように思います。
テクノロジーが発達するほど、私たちは多くのものを短時間で手に入れられるようになります。
画像を作る時間。
文章を書く時間。
知識を探す時間。
商品を手に入れる時間。
移動する時間。
これまで何時間も、何日も、何年も必要だったことが、次々と短縮されていく。
すると逆に、短縮できないものの価値が上がるのではないでしょうか。
これは「Scarcity of Money」から「Scarcity of Time」への移動とも言えます。
もちろん、お金の価値がなくなるという意味ではありません。
むしろ富があれば、優れた医療を受けることも、良い食事を選ぶことも、働く時間を減らすことも、世界中を旅することもできます。
お金は、時間をより自由に使うための強力な道具であり続けるでしょう。
すると、そこで少し不思議なことが起こります。
十分なお金を持った人たちの間では、価格の高いものを買えることよりも、「その自由になった時間を何に使ってきたのか」の方が、違いを生み始めるかもしれません。
100万ドルの時計を買える人が100万人いる世界で、その時計だけを見せても、それほど珍しくはありません。
一方で、60歳を過ぎても高い心肺能力を維持している身体、何十年も続けてきた技術、深い知識、あるいは長期間壊れずに築いてきた人間関係は、同じようには量産できません。
そして興味深いことに、こうしたものの中には、本人が何も説明しなくても外から見えるものがあります。
特に、「身体」です。
身体は、かなり正直です。
そこには、その人がこれまでどのように時間を使ってきたのかが、少しずつ蓄積されています。
そして今、その身体の状態までもが、かつてないほど細かく数字として可視化され始めています。
ロンジェビティは新しいラグジュアリーになり得る
身体が数字として見えるようになると、少し事情が変わってきます。
これまでも、人は見た目から健康や若さをある程度判断してきました。
引き締まった身体。姿勢。肌。髪。歩き方。
しかし現在は、その内側まで数字で見ることができます。
VO₂max。
安静時心拍数。
HRV。
睡眠時間と睡眠の質。
筋肉量。
体脂肪率。
血糖値。
血液検査のさまざまな指標。
そして最近では、複数のデータから「Biological Age」のような概念まで算出しようとするサービスがあります。
もちろん、人間の健康を一つのスコアに還元することには限界があります。
数字が良ければ必ず長生きできるわけでもありませんし、ウェアラブルデバイスが表示する値のすべてを医療診断のように受け取るべきでもありません。
それでも興味深いのは、これまで本人にしか分からなかった身体の状態が、少しずつ「測定可能で、記録可能で、他人にも見せられるもの」になってきたことです。
私はランニングをしているので、これはかなり身近に感じます。

昔なら「最近、調子がいい」という感覚で終わっていたものが、今ではGarminやスマートウォッチを開けば、心拍数、ペース、ケイデンス、睡眠、回復状態まで数字として残っています。
昨日より今日。
去年より今年。
同年代の人との比較。
自分の身体がどのように変化しているのかを、本人がかなり細かく追跡できるようになりました。
私が住んでいるボストンは、病院や大学、バイオテクノロジーの存在が日常の風景の中にあります。
街を走っていても、少し進めば大きな病院があり、別の方向へ行けば大学や研究施設がある。
そんな場所で暮らしていると、健康や身体というものが、単に「病気になったら病院へ行く」という話から、「自分の状態を継続的に観察し、より良い状態へ調整していくもの」へ変わりつつあることを実感します。
そして私は、この流れがロンジェビティを単なる健康ブームとは少し違うものにしていくのではないかと思っています。
従来のラグジュアリーは、基本的に自分の外側にありました。
高級時計を腕につける。
スポーツカーに乗る。
大きな家に住む。
ブランドの服を着る。
そこには、
「私はこれだけ消費することができる」
という分かりやすいメッセージがあります。
経済学では、こうした現象を「Conspicuous Consumption」、日本語では「顕示的消費」と呼びます。
では、物質的な豊かさがさらに一般化した社会ではどうなるのでしょう。
高級時計を持っている人も多い。
高級車に乗る人も多い。
世界中のラグジュアリー商品をスマートフォン一つで購入できる。
そのとき、ステータスの競争は、消費そのものから別の方向へ移動するかもしれません。
例えば、
「私は60歳でもこれだけ走れる」
「私は毎晩これだけ眠れている」
「私はこの柔軟性を維持している」
「私はこの身体を何十年も壊さず使っている」
ということです。
これは、「Conspicuous ConsumptionからConspicuous Optimizationへ」の変化と表現できるかもしれません。
顕示的に「消費する」のではなく、顕示的に「最適化する」。
ステータスの対象が、所有物から自分自身へ移っていくのです。
この変化を考えると、ロンジェビティという言葉が急に違って見えてきます。
ロンジェビティというと、「長生きするための健康法」という印象があります。
しかし、もし健康寿命、身体能力、若々しさが社会的なシグナルとして機能するようになるのであれば、それは新しい形のラグジュアリーでもあります。
ここでいうラグジュアリーとは、単に高価な治療やサプリメントのことではありません。
むしろ、
良い食事を選べること。
十分に眠れること。
毎日運動する余裕があること。
ストレスから距離を取れること。
定期的に自分の身体を検査できること。
必要であれば専門家に相談できること。
そして、それを何年も続けられること。
そうしたものの総体です。
考えてみれば、これはかなり贅沢なことです。
毎日8時間眠ることさえ、すべての人に平等に与えられているわけではありません。
仕事を途中で切り上げて走ることも、食事に気を配ることも、健康診断を定期的に受けることも、それを支えるお金だけでなく、時間、環境、知識、そしてある程度の自己決定権が必要です。
そう考えると、未来のラグジュアリーは、ますます目立たなくなるのかもしれません。
大きなロゴも必要ありません。
エンジン音もしません。
腕時計のように袖口から見せる必要もありません。
その人が歩く。
走る。
食べる。
眠る。
年齢を重ねる。
その身体そのものが、何十年にもわたる選択の結果として現れるからです。

もちろん、ここには少し不穏な側面もあります。
健康がステータスになるということは、身体データが新しい競争の対象になるということでもあります。
SNSに高級時計を載せていた人が、将来は自分のVO₂maxや睡眠スコア、Biological Ageを載せるようになるかもしれない。
あるいは、実年齢より何歳若いのかを競うようになるかもしれません。
健康のために始まった最適化が、いつの間にか他人との比較になる可能性もあります。
それでも私は、この方向への変化そのものはかなり自然だと思っています。
なぜなら、ポストスカーシティの世界で希少になるのは、単に高価なものではありません。
「買った瞬間に完成しないもの」です。
健康な身体も、優れた身体能力も、一度購入して所有権を移転すれば終わる商品ではありません。
毎日少しずつ維持しなければ、失われていきます。
その意味では、ロンジェビティとは究極のサブスクリプションなのかもしれません。
支払うのは、お金だけではない。
自分自身の時間です。
最後に残る希少資産は「自分自身」なのかもしれない
ここまで考えてくると、ポストスカーシティという言葉の見え方も少し変わってきます。
それは、単に「モノが余る未来」の話ではありません。
モノが余るからこそ、人間が何を希少だと感じるのか、その基準そのものが変わっていく未来の話なのだと思います。
私自身、これまでいろいろなものを集めてきました。
アート、NFT、トレーディングカード、靴、そして、釣り道具もあります。
どれも好きだから集めていますし、その価値がなくなるとも思っていません。
むしろ、モノが大量に生産される時代になるほど、そこに文化や歴史や来歴があるものは、これまで以上に面白くなると思っています。
ただ、最近はコレクションを眺めながら、少し別のことも考えるようになりました。
「自分が集めているものの中で、本当に代替できないものは何なのだろう。」
例えば、同じトレーディングカードを持っている人は世界のどこかにいます。
同じアーティストの作品を所有している人もいます。
同じフライロッドを使っている人も、同じランニングシューズを履いている人もいます。
けれど、それらを使いながら自分が過ごしてきた時間まで同じ人はいません。
メイン州の森の中で、夕方の川を眺めながらライズを待っていたこと。
ボストンの寒さの中を一人で走ったこと。
理解されるかどうかも分からないデジタルアートを、まだ小さなコミュニティの中で追いかけていたこと。
誰かに勧められたからではなく、自分なりの理由で一枚のカードや一つの作品を選び、それを何年も持ち続けたこと。
こうしたものは、履歴書や肩書きには表れません。
しかし、それらをすべて合わせたものが、その人自身をつくっています。
そして、これは簡単にはコピーできません。
AIは私より上手な文章や美しい画像を生成するかもしれません。
私より正確に情報を整理し、私より速く投資対象を分析することもできるでしょう。
しかし、AIが私の代わりに過去を生き直すことはできません。
昨日走らなかった10キロを、今日AIに走ってもらって履歴へ追加することはできないのです。
ここに、AI時代の少し皮肉な逆説があるように思います。
人間の能力を代替する技術が高度になるほど、「代替できない人間の履歴そのもの」が価値を持つようになるのではないか。
そしてそれは、身体だけの話ではありません。
長く続けてきた仕事。
積み上げた知識。
何十年も続いている友情。
失敗した経験。
自分だけが知っている場所。
コミュニティから得た信用。
何年もかけて形成された美意識。
どの作品を好きになり、どの作品を見送ったのか。
何を買ったのかだけでなく、何を買わなかったのか。
こうした選択の連続は、最終的にはその人固有の履歴になります。
これまで私たちは、希少なものを自分の外側に探してきました。
金。
宝石。
土地。
時計。
自動車。
アート。
トレーディングカード。
そしてNFT。
しかし、モノもコンテンツも限りなく生成できる社会になったとき、最後まで完全には複製できない希少資産は、意外にもすぐ近くにあるのかもしれません。
自分自身です。
もちろん、人間そのものを資産価値だけで語るつもりはありません。
健康状態や身体能力が高い人ほど価値がある、という話でもありません。
ここで言いたいのは、もう少し単純なことです。
自分が何年生きてきたのか。
その時間を何に使ったのか。
何を学んだのか。
何を好きになったのか。
誰と関わったのか。
何を諦め、何を続けたのか。
そうしたものは、あとから大量生産することができません。
これまでのステータスは、しばしば「何を所有しているか」によって測られてきました。
しかし、ポストスカーシティの世界では、その問いが少しずつ変わっていくのかもしれません。
What do you own?
から、
What have you become?
へ。
何を持っているのかではなく、どんな時間を積み重ね、どんな人間になったのか。
もしそうだとすれば、ポストスカーシティとは、私たちがモノを必要としなくなる未来ではありません。
むしろ、モノが豊富になったことで、これまで見えにくかった希少性に気づき始める未来なのだと思います。
そしてそのとき、最も贅沢なコレクションは、棚の上にも、ウォレットの中にもないのかもしれません。
それは、自分自身の中に積み重なっているものです。



